本日は、いつもの趣向とかえてひな段の歴史についてお話しします。
正確で分かりやすい資料を探しましたので、ごゆっくりご覧下さい。
なにぶん古い文献ですので、ご質問等があれば然るべき所に問い合わせ、お時間をいただいてお返事します。
Contents
「俳諧清鉋 二」 法眼不角編
低い段に、立ち雛座り雛をあわせて飾っています。雛の濫觴(らんしょう)とされる立ち雛は、江戸のはじめ頃には大切にされて、最上段におかれていますが、のちには古くさいとされて、下段にお義理のように並べられている例が多くなります
現在では雛段は7段にまでその数を増し、華やかな飾り付けとなっていますが、最初からそうであったわけではありません。
床の間などの平たい場所に飾ったものが、その後、年を追うごとに高くなってゆくさまを資料で追ってみました。
なお、元禄の俳人榎本其角の句に「段の雛清水坂をひと目かな」とあり、この頃からもう段上に雛を飾ることがなされていたことを物語っています。
「日本歳時記 二」より 貝原好古著
座敷の一隅に平たい台をしつらえ、屏風を引き廻して、立ち雛と座り雛の両方を飾っています。雛道具も食器類のみ、中央に大きな菱餅が供えられるなど、文字通りの「節供」(節の日に供え物をする)です。戸外では男の子たちが鶏合わせ(闘鶏)をしています。これも三月三日の行事でした
雛が美しく作られるようになり、ひとがたのように水に流すことがなくなると、その飾り方にも次第に工夫が加えられてきます。
とはいえ当初は、ごく素朴なものでした。
「女諸礼集大全 一」より 浪花田千里著
(ひとがたと立ち雛とを比較して描いています。立ち雛はその姿から来た近年の呼称で、昔は紙で作られたことから紙雛と呼ばれていました。これは裂を用いるようになっても続いていました。あるいは神の字を宛てて神雛、かんびななどとも呼ばれています。風俗的には男女とも小袖姿で、室町時代の民間の衣服です。このことから立ち雛は室町以降のものと推測されています)
次に雛師などをご紹介していきます。
「人倫訓蒙図彙 五 細工人部」より 雛師蒔絵師源三郎ほか画
「紙ひいな装束ひいなあり 紙ひいなは紙をもて頭を造り 又ほうこのかしらこれをつくりてひいなやにうる也 雛屋これをもて品々仕立あきなふ也」と、今日でいう頭師と着付師の分業がこの頃からそろそろ始まっています
「女用訓蒙図彙 上」より 奥田松伯転作・序
(「女器財」の部に「雛」が見えていますが、立ち雛のみです。雛道具には絵櫃も描かれています。絵櫃は千木(ちぎ)箱ともいわれ、平安時代ごろから節句の食品を入れ、外には季節の草花などを描いています。古い頃の雛飾りには、必ずといってよいほど描かれている器です。なお「御伽」は這子(おとぎぼうこ)のことです。犬張子は箱状の犬筥で、まだ後世のように四つ足ではありません)
今回は、主に立ち雛、お道具についてお話ししました。
順次、折に触れてひな人形の歴史についてお話しします。