五月人形について

五月人形について

4月半ばも終え、今回は五月人形についてお話しします。

 

端午の節句の歴史は古くはじまりは菖蒲飾り

端午の節句(※)は、奈良時代(約1250年前)から始まったといわれます。この時代、朝廷では5月5日に菖蒲を飾り、無病息災を祈る節会を行っていました。菖蒲には特別な力があると信じられ、この菖蒲を目印といて神をお迎えしたのが、菖蒲飾りの始まりとされています。平安時代になると端午の夜に菖蒲を枕の下に敷いて寝る「菖蒲の枕」や、節会では菖蒲草を冠にいただき騎射が行われるなど、端午の節句、菖蒲の節句が記されています。

※端午の節句・・・月初めの午の日を「端午」とし、奇数月の同じ数字が重なる日を節句としました。この慣わしが、いつからか5月5日に限られるようになりました。

鎌倉時代になると旗幟や吹き流し、鎧や兜

鎌倉時代ごろから「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉が剣の形を連想させることなどから、端午は男の子の成長を祝い健康を祈る節句となりました。そして、5月の節句には外に旗幟や吹き流しを飾り、座敷には鎧や兜、武具を飾るようになりました。

武家から町人に広がり豪華になっていった江戸時代

江戸時代、武家のあいだでは男児の節句として定着していた端午の節句が、町人のあいだにも広く伝わっていきました。町家では武者絵のぼりや鯉のぼりが立てられ、男児の健康と出世を願う気持ちが武士の鎧兜と結び付いて、鎧兜を付けた人形や金太郎、桃太郎などの人形作りへとつながっていきました。また、室内に飾るようになった甲冑は次第に作りが精巧に豪華になっていきまいsた。江戸時代の後期には、男の子の誕生を祝う「初節句」が盛大に行われるようになりました。

現代に受け継がれる男子誕生を祝う初節句

武者人形を飾って男の子のすこやかな成長を祝う習慣は、日本独自の節句行事として現代に定着しています。とくに今日では、初節句にその精神を貴び、五月人形として鎧や兜を飾るようになりました。男の子の誕生を祝い無事に成長し、強く、立派な男子となるようにとの家族の願いが込められています。

※「こどもの日」・・・端午の節句の5月5日が、「こどもの日」として祝日に定められたのは、昭和23年。

 

次に、こいのぼりについてお話しします。

5月の青空にたなびく男の子誕生のよろこび

古代、日本では子どもが生まれると家の前に長い竿を立て、神様が天からそれをつたって下りてきて子どもを守ると信じられていました。鯉のぼりは、男児の誕生を天に告げ、守護を願うための目印ともされています。なぜ「鯉」なのかというと、これは中国の故事に由来しています。中国では、「鯉は黄河上流の竜門の急流を登り竜になる」と信じられており、立身出世のシンボルとされています。「登竜門(※1)」という言葉もこの伝説に由来します。

 鯉のぼりの定番は、五色の吹き流しと三匹(またはそれ以上)の鯉のぼり。吹き流しの五色は五行(※2)説に由来します。他の家よりも早く神様の目にとまるよう、いろいろな色の布を竿の先端につけるようになりました。これが五色の吹き流しの原型です。

※1「登竜門」・・・難関ではあっても、ここを突破すれば立身出世できるという関門のことです。

※2「五行」・・・中国古来の哲理。天と地のあいだに循環する木・火・土・金・水の五つの元気。万物組成の元素と考えられています。

武者人形について

次に、五月人形の武者人形についてお話しします。

金太郎

別名を金時と呼びます。童話でおなじみの熊と相撲をとった力自慢の童子。平安時代の剛勇、坂田公時の少年時代だといわれます。成人して都に上った公時が、源頼光の四天王の一人となって大活躍する説話が浄瑠璃や歌舞伎で脚色され、子どもたちの英雄となりました。

桃太郎

室町時代から伝わるといわれる日本五大昔噺のひとつ、ご存知、桃から生まれた「桃太郎」。桃太郎は、人々に乱暴をはたらいていた鬼を退治するため、きびだんごを持って、イヌ、サル、キジをおともにしたがえ鬼ヶ島へでかけます。そこで見事鬼たちをこらしめました。

 

本日は、五月人形についてお話ししました。

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