先日に人間国宝のお話しをお話ししましたら、日本人形・ひな人形では作品がないのですかとお問い合わせがありました。
調べまして、人間国宝の人形作家さんを探しました。
人間国宝の人形の資料を紐解いて、本日は5人の作家さんのお話しをします。
「平田郷陽」「鹿児島寿蔵」「堀柳女」「野口光彦」「野口明豊」の5人についてお話しします。
この中で「平田郷陽」「鹿児島寿蔵」「堀柳女」の3人は、昭和11年(1936年)の帝展にはじめて人形部門が設置され、見事入選しています。
人形はこの時点で、ようやく美術工芸の部門として内外に認知されたのです。
帝展以後に文部省美術展にも人形の部門は継承され、人形作家たちは各自の活動を今まで以上に開始します。
教室や塾を開いて後進を育成し、女性の人形作家等もいくつかの作品を発表するようになりました。
順調なようにみえましたが、その後の1941年の日米開戦以降は戦局の中で人形製作もしばらく絶えることになります。
敗戦によって、冬の時代を耐えた作家たちの創作活動は、すみやかに開始されました。
日展、朝日新聞社の主催する現代人形美術展、その後の日本伝統工芸展と人形の活躍の場が広がっていきます。
その中で人間国宝である5人は、伝統と創造の中で独自の人形の世界を築き、完成した作品の人形芸術には多くの人に感動と癒しを与えて、見る人の心をうっています。
平田郷陽(1903~1981)
昭和2年の日米親善人形で、青い目の人形の市松人形を送ることになった。
その作品審査会で1位となった平田氏は、その後人形の芸術界参入を目指し、人形芸術運動で作家活動を開始する。
あらゆる作品を通じて、かつて写実で鍛えたデッサンの確かさがある。
人間そのもののあたたかく鋭い観察眼が生きている幼童たちの無心の姿にあらわれている。
まさに聖女、聖少女は清らかな表情美にある。

(↑「遊楽」)

(↑「熟柿<座像>」)

(↑「児歓ぶ」)

(↑「新秋」)
堀柳女(1897~1984)
昭和30年(1955年)に衣装人形で平田郷陽とともに人形界初の人間国宝に認定されています。
はじめから人形作りを志したのでなく、日本画を学んだりして伝統的な人形観に縛られない作家です。
単に美しさだけでなく、「本当の心」を表現し、これは今日の創作人形界の先駆けとなりました。
自己表現の一方法として人形製作を選んでいる芸術品には、それぞれの分野や使命があるが、人形には人形の役割があり高い香気を持つとともに、人間の心に安らぎを与えほほえみを投げかけてくれるのが人形ではないだろうかのようなことを語っています。

(↑「踏絵」)

(↑「野づら」)

(↑「けはい」)
鹿児島寿蔵(1898~1983)
アララギ派の歌人でもあり、「人形というものは何老いてなおその何たるかまだ見えて来ぬ」と人形についてうたっている。
九州福岡の出身で、始めは博多人形を学び独立してテラコッタを製作している。
紙塑人形で独自の世界を展開していき、帝展に入選し、人形には感性が見事に息づいています。

(↑「さぬのちがみのをとめ」)

(↑「大森みやげ」)

(↑「卑弥呼」)
野口園生(1907~1996)
東京の生まれで、生家は旗本で一族には芸術家の多い家で育ち、大らかな作風を生んでいる。
人形製作を志し、堀柳女に弟子入りしている。
豊かな発想と確かな技術で、一つのかたちに固執しない。

(↑「末娘」)
狭い空間に家族4人の寄り添う姿がのびやかにかかれています。

(↑「京の夢」)

(↑「日々安穏」)
市橋とし子(1907~2000)
桐塑人形で人間国宝の認定を受けている。
作風は、その底を流れる健やかな社会感性にあります今村繁子氏を師としてから人形作家となります。

(↑「未来を語ろう」)
老人と語り合う少年の視線が美しい。

(↑「風薫る」)
おもざしは清潔感にあふれている。

(↑「小春日」)

(↑「野道」)

(↑「陽炎(かげろう)」)

(↑「夕陽」)
今回は、人間国宝の5人の人形作家さんについてお話ししました。
お問い合わせ、ご質問等ございましたら、なんなりとおっしゃって下さい。
よろしくお願いします。