五月人形について

端午の節句と五月飾りの種類について

4月に入り、五月人形のリメイク・リサイズについてのお問い合わせが続きます。

まず、五月人形についての資料をご紹介します。

 

端午の節句とは

端午とは、月の初めの午の日という意味で、古代中国では物忌みの月とされる5月の最初の午の日に、野に出て薬草を摘んだり、よもぎでつくった人形を家の戸口にかけたり、菖蒲酒を飲んだりして、邪気を祓うさまざまな行事を行いました。この風習が奈良時代には日本にも伝わり、薬草である菖蒲やよもぎを軒先や家の中に飾って、邪気を祓い、無病息災を願ったのが、わが国における端午の節句の始まりです。

平安時代、宮廷ではこの日、破邪のために菖蒲を飾り、また菖蒲やよもぎを五色の糸で貫いた薬玉を皇族や臣下に下賜しました。あるいは、悪鬼を退治するという意味で、騎射などの勇壮な武事も催されましたが、やがて民間でも、子どもたちがこれにならって勇ましい遊びを楽しむようになります。当時、宮廷ではすでに端午の節句が公の儀式とされていましたが、のち、次第に武家や民間でもこの日を祝うようになり、鎌倉幕府や室町幕府も端午の節句を公の祝日としました。

江戸時代になると、5月5日は幕府の重要な式日となり、この日は大名や旗本が江戸城に伺候しました。また将軍に男子が生まれると、城内に幟などを立てて祝うようになり、この頃から端午の節句は男の子の誕生の祝いと密接に結びつくようになってきます。

やがて武家では、男の子が誕生すると後継ぎができたことを祝って鎧や兜を飾るようになります。武士にとって、鎧や兜は自分の身を守る重要な道具であり、武士の象徴としての精神的な意味を持つ大切な宝物。この宝物に願いを託して、男の子の誕生を祝うとともに、「健やかに育て」「強く立派な男の子になれ」と祈ったのです。

 武家ではまた江戸時代の初期、幟や長刀などを屋外に飾りましたが、町民たちはそれを真似て、家の前に柵をつくり、そこに造り物の兜や長刀、槍、幟、吹流などを立て並べました。このとき、町民たちは、兜の頂の部分に勇ましい人形の細工物をのせる工夫を施したのですが、のちにこの兜から人形が独立して別々に飾られるようになり、これが五月人形のそもそもの始まりであるといわれています。

さらに、江戸後期になると、これらは小型化して屋内に飾られるようになり、魔除けの赤い布を敷いた上に幟や槍を立てた枠を置き、その前に人形や鎧、兜などを並べ、これに柏餅やちまきなどを供える座敷飾りが普及しました。これが現在の節句飾りの原形です。

このように、脈々と受け継がれてきた祝いの形には大きな意義がこめられています。それが5月という美しい季節と相まって、日本独自のさわやかな年中行事をかたち作っているのです。

 

五月飾りの種類

五月飾りには大きく分けて内飾りと外飾りがあります。内飾りは鎧飾り、兜飾り、武者人形などのことで、室内に飾ります。外飾りは鯉のぼりや武者絵のぼりで、お庭やベランダに飾ります。

鎧飾り

江戸後期から、鎧櫃の上に鎧をのせて飾る重厚な雰囲気の鎧飾りが流行しはじめました。高さ5~10センチの平台や30~40センチの髙床台の上に、屏風を乗せて(台を小さいものにして屏風を台へ乗せずに飾る方法もあります)、向かって右に太刀、左に弓矢を飾るタイプが一般的です。

兜飾り

兜櫃の上に兜を置き、鎧飾りと同じく左右に弓矢と太刀を飾るタイプが一般的です。兜飾りは鎧飾りより小型のものが多く、近年では兜や道具を飾り台の中に収納できる「収納箱飾り」や、ガラスケースやアクリルケースを使用した「ケース飾り」など様々なタイプがございます。また、伊達政宗や上杉謙信といった有名な武将の兜を模した兜飾りも人気を集めています。

鯉のぼり

中国の黄河の上流にある龍門という急流の滝を登りきった鯉は、龍になって天に昇るといわれています。この「登龍門」の故事にちなみ、立身出世の象徴として江戸の町民が立てたのが鯉のぼりの始まりだといわれています。青く澄んだ空を悠然と泳ぐ鯉のぼり。現在では、歌にもあるように真鯉を父、緋鯉を母、次から子供達とし、次男、三男が生まれると子鯉を増やすというご家庭もあります。

 

おわりに

五月人形のお祝いと申しましても、歴史もあれば意義もあり、種類もあります。

ご家庭に眠っていたりして今年は飾ってみようと思われた方は、今一度お確かめ下さい。

そのまま飾られる方もいらっしゃれば、今年こそはリメイク・リサイズして残されようと思われる方もいらっしゃいます。

御用、ご質問がございましたら、お問い合わせ下さい。

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