ひな人形について

江戸時代のひな人形の歴史について

現代のおひなさまは華やかですが、ひな人形のはじまりはどのようであったかを考えます。

ひな飾りのはじまりを、図説と文章によってご説明します。

 

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雛飾りのはじまり

雛が美しく作られるようになり、ひとがたのように水に流すことがなくなると、その飾り方にも工夫が加えられてきます。

とはいえ当初は、ごく素朴なものでありました。

「日本歳時記 二」より 貝原好古著 貞享5年(1688)刊

座敷の一隅に平たい台をしつらえ、屏風を引き廻して、立ち雛と座り雛の両方を飾っています。雛道具も食器類のみ、中央に大きな菱餅が供えられるなど、文字通りの「節供」(節の日に供え物をする)です。戸外では男の子たちが鶏合わせ(闘鶏)をしています。これも3月3日の行事でした。

 

「誹諧童子教 中」より 元禄年間(1688-1703)刊

床の間のような所に立ち雛を二対、立てかけています。屏風もなく、供え物も素朴で、ごく普通の家庭での雛祭の様子でしょう。

 

「大和耕作絵抄」より 石川流宣画 元禄年間(1688-1703)刊

かなり富裕な家庭の雛祭でしょう。間口の広い台の上に、大型の座り雛二対を並べています。雛もそれぞれへりのついた畳台に乗っていますし、前には銘々の膳部が供えられています。屏風の後方に行器、女乗物(駕籠)や長持などが見えますが、いずれもかなり大型です。上部に、今は陸奥の末まで衣冠ただしき内裏雛をまつるという意の文章が見られ、雛祭の急速な普及が推測できます。

 

雛段の移り変わり

現在では雛段は7段にまでその数を増し、華やかな飾り付けとなっていますが、最初からそうであったわけではありません。

床の間などの平たい場所に飾ったものが、その後、年を追うごとに高くなってゆくさまを資料で追ってみました。

なお、元禄の俳人榎本其角の句に「段の雛清水坂をひと目かな」とあり、この頃からもう段上に雛を飾ることがなされていたことを物語っています。

「俳諧清鉋 二」法眼不角編 延享2年(1745)刊

低い段に、立ち雛座り雛をあわせて飾っています。雛の濫觴とされる立ち雛は、江戸のはじめ頃には大切にされて、最上段におかれているが、のちには古くさいとされて、下段にお義理のように並べられている例が多くなります。

 

「絵本大和童」 西川祐信画 享保年間(1716-35)刊

これも1段のみの例です。座り雛は室町・寛永雛に見るように女雛が袖を横に張った形です。雛の駕籠に乗せて、何か贈り物が届いたところでしょうか。絵櫃の中にはご飯が詰めてあり、小さな男の子はご馳走に夢中です。

 

「どうけ百人一首」 近藤清春画 享保年間(1716-35)刊

店先のような所に雛を飾って、庶民の家の雛祭りであろう。段はどうやら2段のようです。

 

「雛遊び貝合之記」 西川祐信画 寛延2年(1749)

座り雛一対のほか、立ち雛をたくさん並べています。段は2段、それもかなり高くなっています。手前の少女は手遊びの人形をもてあそんでいます。なお、著者渡会直方は、この書に雛祭の事始めは崇神天皇に遡るという説をはじめ、天児のこと、上巳の節句、雛の語源などを説いていますが、「雛を小さく作るのは小彦名命を写したからだ」等々、神道家出身らしく大半を神話伝説に結びつけ、「雛遊びは神事なのでおろそかにしてはならない」と結んでいます。(男雛は左右いずれへ飾るのが正しいか、とは例年雛の時期になると必ず論議されるところですが、この絵では男雛が向かって左に置かれ、すなわち今の雛人形のように現代式です。雛は漠然と貴人をかたどっただけのことで、有職雛には貴族の平服姿のものさえあるのだから、どちらが正しいかとあまり型にはめるような議論はむしろふさわしくないのではないか)

 

「絵本諸礼かがみ」より 月岡丹下画 宝暦6年(1756)刊

段は2段ですが、さらに高くなり、立ち雛は2段目に並べられています。娘たちばかりではなく、男の子も招かれて、奴の人形やのろま人形のような手あやつりの人形でたわむれています。こうしてさまざまな人形で遊ぶ日でもあったのでしょう。「白酒の酔 からくりの糸を切り」という古川柳がよく情景を伝えています。

 

※出典:「図説 日本の人形史」編者 山田徳兵衛より

最後に

今回は、江戸時代のひな人形の歴史を述べました。

数百年前からこのように女の子のお祝いにひなを飾って、老若男女でお祝いのおぜんで雅な世界を過ごしたのでしょう。

なんとも優雅なほほえましい光景です。

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