いつも当ブログをご覧下さりお問い合わせ、ご質問いただきありがとうございます。
本日は、美しい国日本の伝統文化である「楽しいひなまつり」についてお話しします。
なんなりとご意見、ご感想をお願いします。
ひな祭りについて
ひなまつりは平安時代に貴族の間で始まったとされています。
当時、お人形遊びのことは「ひいな遊び」と呼ばれていました。
また、その頃三月の初めの巳の日に、無病息災を願っておはらいする「上巳の節句」が行われていました。この日には紙や草木で作った簡素な人形(形代)にお酒や供物を添えて、自分の身代わりとして川や海に流しました。
それらが江戸時代になって、今の様な「ひなまつり」になったと考えられています。
桃の節句におひなさまを飾り、子どものすこやかな成長を願うという、日本のすばらしい伝統文化を後世に伝えたいものです。
日本の芸術文化を海外にも発信し伝えたいと考えています。
分業による製作
おひなさまは分業によって作られています。
頭師、髪付師、手足師、小道具師などの職人がおります。
また、デザイナーを中心に商品の企画を行い、衣裳の素材・色・加工方法・形などを決定し各職に指示をし、まとめていくプロデューサー的な役割も担っています。
「感性」、品質の高い「素材」、永年培われた「熟練の技術」の結晶で人形が作られるのが特徴です。
工房での製作工程
人形企画
↓
人形デザイン
↓
素材選び
↓
柄出し・打ち合わせ
↓
裁断
↓
縫製
↓
襟巻き
↓
人形着付け(殿・姫)
↓
人形振り付け(殿・姫)
↓
仕上げ頭つけ
↓
完成
絵羽あわせ
絵羽あわせとは、着物の柄合わせのことをいいます。
色彩、デザインを考えます。
おひなさまに繋がる人形の歴史
三月三日は上巳の節句。男雛・女雛のお内裏さまに、三人官女と五人囃子。こまごまとしたお道具も緋毛氈(ひもうせん)に映えて、家のなかにも春が広がります。
にぎやかで楽しいおひなさまの飾りは、どのようにして生まれたのでしょうか。おひなさまに繋がる人形の歴史は、人の形をした木などの薄板に穢れを移し、水に流す古代の神事に遡ります。また宮中においては、幼児の守りとして簡素な姿の天児や這子が平安時代から伝えられています。
一方、平安貴族の間では「ひいな遊び」という小さな人形や調度を用いたままごとが行われていました。平安時代後期の遺品としては、法隆寺に伝来した逆沢瀉威大鎧雛形(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)があり、当時の繊細な雛形道具を垣間見ることができます。
ひいな遊びは鎌倉・室町時代の文献にも見られ、江戸時代へと引き継がれます。この頃になると、三月三日に女子の節句としておひなさまを飾る風習が定着しました。初期のおひなさまは紙雛や立雛と呼ばれる紙製の人形で、手遊びの要素が強いものでした。
おひなさまの誕生
十七世紀の前半になると、宮中の特別な誂えとして絹の衣裳を着せ、座った姿のおひなさまが登場します。丸顔に引目鉤鼻を特徴としたこの人形は次郎左衛門雛(じろざえもんびな)と呼ばれ、現在見られるような衣裳を着た座雛は、この時代に祖形を求めることができます。
宮中の華やかな饗宴はやがて武家や町方にも広がり、富裕な町方では寛永雛や元禄雛とよばれる形式の座雛が生まれました。雛祭の隆盛にともない、町方の雛は錦や金襴をふんだんに用いた享保雛へと進化し、その大型化は倹約を勧める幕府のもと、たびたび取り締まりの対象となりました。
享保雛は実際の装束とはかけ離れた装飾重視の姿をしていましたが、公家や大名などの上流階級では次郎左衛門雛や有職雛など、正しい装束の知識に基づいたおひなさまが発達していました。こうした人形の影響を受けて大成されたと考えられるのが、生き生きとした現実感に華やかな衣裳を持った江戸製の古今雛です。三人官女や五人囃子など、多彩な人形で雛段を飾り立てる方法も江戸で普及し、これが現在一般に思い描くところの雛飾りとなりました。
おひなさまのお祭り
数百年続く日本のひな人形を春の節句にお祝いに飾られて、ご家族、ご親族、ご友人などで集って、宴のおぜんにつかれることはなんともお幸せで、ほほえましい日本のはれの行事の一つだと考えます。